2025年1月9日木曜日

☆僻地の車窓から☆

コロナ後は仕事で海外出張へ行かせていただく機会が多く、
最近の出張はある国の農村地域にある工場視察のアテンドだった。

あたしが台湾移住後に通った語学学校のクラスメイトのほとんどは
この国の出身者だった。
その何人かとはSNS上でまだ連絡が取れる状態で
多くはすでにこの国へ帰国しているのを知っていた。

お客さんのアテンド兼通訳として海外工場視察が出張目的。
慣れない環境の中でお客さんに四六時中気を遣わなきゃいけないから
正直とてつもなく疲れるんだけど、それも仕事。
この国はまだ交通機関が整備途上で首都圏であっても移動は大変。
それが辺鄙な農村地域ともなればさらに時間がかかる。
首都から飛行機で1時間半ほど飛び、そこからさらにクルマで2時間弱…

今回アテンドするお客さんはポジティブな優しい方だったので、
「この景色は日本じゃ見られないから、とっても貴重だよ!」
と辛い移動時間もにこやかに過ごしてくれていたことが唯一の救いだった。

事前に工場担当者からは、この地域は仕事がなく国内外への出稼ぎ者が多く、
安価で若い労働力が集めやすいためこの地に工場を建てたと聞いていた。
たまに民家や学校や政府機関などの建物がポツンと立っているだけで、
ひたすら田畑が広がるのどかな地域だった。

あたしはそのド田舎な景色を見ながら、
語学学校のクラスメイトたちのことを思い出した。

その中に一人、あたしのことを「お姉さん」と呼んで
ものすごく親しくしてくれていた男の子がいた。
彼はこの国の中でも特に貧しい地域の出身だと聞いたことがあり、
もしかしたらここ!?と頭をよぎった。

彼は高校を卒業してすぐにお金を稼ぐために台湾研修を決め、
あちこちから費用をかき集めて申し込みをしたという。
両親だけではお金の工面ができず、親戚や知人を頼ったそうだ。
資金がギリギリの中での渡航となったために
台湾での生活費を十分に用意することができなかった。
台湾の在留証を取得できるまではバイトもできないし、
仮にしていたら違法として強制送還されて保証金も帰ってこない。
そのために満足に食事できない状態でしばらく過ごしたという。
※住居については台湾側の保証人が用意しているため問題ない。

その当時の彼のクラスメイトたちや担任の先生の力添えで
バイトができるようになるまで何とか空腹をしのいだそうだ。
あたしが知り合った時にはすでに彼の生活は安定しており、
料理ができるかどうかという話を彼としていたとき、
彼は『ボクは今、調理のバイトをしているから得意だ』と話していた。
彼の苦労話は、彼をよく知る別の国出身のクラスメイトから聞いた。

クルマはひたすらだだっ広い農村を走り続け、たまに牛の大群が現れた。
車道脇をノソノソ歩いていることもあり、車窓から牛に触れるほどの距離。
あたしが思わず「牛サファリですね」というと、お客さんは笑っていた。
またしばらく車窓からぼんやりその景色を眺めながら彼を思い出し、
こういう地域で生まれ育ったんだなとしみじみしてしまった。

確か台湾研修のための申込費用は10万台湾ドル(約3100米ドル)だと聞いた。
この国の平均月収は200米ドルという背景から考えると
貧困地域に生まれ育った彼の家庭にとっては割と大金だといえる。
台湾での当面の生活費が用意できなかった…というのは大袈裟じゃない。
たまに見かける現地の人と彼の姿を重ね合わせた。

彼は今、この国の首都圏に住んでいるらしい。
台湾で語学学校に通った後に大学へ編入し、専門知識と語学力を身につけ、
多少の貯蓄もできたから貧しい地元へ戻る必要はなかったのだろう。
恋人との写真をSNSで多く載せている彼を見る限り、
台湾で知り合った頃と外見は変わらず純朴なままで安心している。

仕事の話に戻そう。
せっかく時間とお金をかけて異国の地へ出張へ出た以上、
あたしも何かを習得しなければもったいない。
ただ通訳しながら工場内部だけを見ても意味がない。
この地に工場を建てた背景や工員さんたちの生活水準などの情報も含め
あたしたちは今後の仕事に役立てなければならない。

海外出張なんて海外旅行と変わらない…と勘違いされることもあるけど、
そういう側面ばかりではない。
あたしはせっかくの機会を無駄にしないように、
とにかく気を張っていろんな情報を取るように心がけている。
自分のこれらの行動がいつか必ず活きると信じている。

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